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髙島野十郎画集「作品と遺稿」≫無限を切り取る

髙島野十郎

甘美な世捨て
この世にあらざる写実
謎深き画家の全貌

(髙島野十郎画集『作品と遺稿』帯より)

髙島野十郎画集『作品と遺稿』

髙島野十郎

髙島野十郎画集『作品と遺稿』 求龍堂 2008年初版

髙島野十郎(たかしま・やじゅうろう)の絵を観たのは、もうずっと、何年も前の福岡市立美術館だった。

有名なサルヴァドール・ダリの絵があって驚いたから、たしかにそこだったと思う。野十郎の絵は小さなスペースに、他の絵と一緒にほとんどひっそりと、何気ない感じで一枚だけ展示してあった。

私は細密に描かれている本草学の本にあるような日本画が好きで、その時もはじめ、野十郎の絵のそういう細密な表現が気に入った。画面が全体になんとなく明るく、水辺の様子だったと思う。その絵を観ているとなんだか気持ちがよく、ずっと観ていたくなる。

展示室にある全ての作品を丹念に鑑賞した後、私は特別なお気に入りにするように、その時もまた順路を逆行してその絵の前に戻った。(順路を逆行するのはよくないと思うが、このときは他に誰一人いなかったし、多くの人でごったがえしている東京の美術館のような施設ではしないのでどうか許してほしい)

見れば見るほど気分が良くなる。この世界にずっといたい、と眺めながら思う。

でも永遠にそこにいるわけにいかないので、うかつにも鉛筆を持っていなかった私は、その画家の名前を頭の中にメモした。忘れてしまいそうだから、歩きながら何度もなんども頭の中で唱えていたことを覚えている。

そんなに必死に覚えていたいと思った画家ははじめてだった。

髙島野十郎

それからいろいろな展覧会に行ったけれど、野十郎の絵には会えなかった。ずっと、もっと観たいと思っていた。でもなかなか会えなかったので、寡作な画家なのか、売らなかったのか、どちらにせよ、またあの美術館へ行くしかないのだろうと思いこんでいた。

でも去年ふっと、もしかしたら画集があるんじゃないかと思いつき、(なぜこれまで思いつかなかったのか!)、検索してみたら数冊の本が出ていた。画集としてはたぶん2冊。できるだけたくさんの絵が観たかったので、高価な方を購入した。

とても美しい印刷で、ほとんど鬼気迫るほどに静謐な絵が時代ごとに133点収められている。

薄い皮の下の充実した果肉の様子がありありとわかる柿、その香りが鼻をさし唾を飲むほど瑞々しいりんご、目で見てもこれほどは見えないだろうと思うくらいに描き込まれた草、降り積もる一瞬を切り取った雪の原、それから連作のような『月』と『太陽』と『蝋燭』。

私の好きだったあの絵は、しかし、このなかにあるかどうか、何度見てもどうしても私には探せなかった。索引によるともしかしたらそれは『早春湖畔』という絵なのかもしれない。

でも、画集や図録の中に、自分が感動した絵を探すことができないというのは、他の人のことはわからないけれど、私にとっては度々あること。たとえばマルク・シャガールの『墓地の門』やゴッホの『サン=レミ療養所の庭』なども、展覧会でいちばん感動したのに図録でそれを探すのは一苦労だった。ふたつとも、タイトルが特徴的だから探せたので、なにか他の名前をつけられていたら探せずに終わったかも、と思う。

展覧会直後に図録で見てさえそうなので、もうずっと何年も前の一度だけ観た野十郎の絵が画集の中で探せないとしても、不思議ではないかもしれない。

だからやっぱり絵というのは、実際にこの体をその前に運んで、自分の目で見なければ、それが自分のための絵かどうかはわからないんだな、と私なんかは思っている。

本物の絵の気迫は、印刷にはうつらないのだと思っている。

色や形以外の何かが篭っていて、それが私の何かを揺すると、他より際立ってうつくしく視えるのか……。

それでも野十郎の絵は、本の中にあっても、ずいぶんおしゃべりだなと思う。ページを繰りながら、しーんとした世界に落ち込むような心地よさを感じる。どれを観ても、違和感なく自分に馴染む。

つまりもしかすると、野十郎は描きたいことがあまり変化しなかったのかもしれない。

だから特にこれ、と選ぶことが難しい。

目で見るよりも明瞭に、緻密に描くことで、….

 

続きは新しい「kvieteco」にて…

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