私たちは、何処へ?
「聖なる予言」に続く
魂の冒険。(本書帯より)
「第十の予言」
第十の予言 あらすじと内容
ペルーから戻った私は、九つの知恵を生活の中で活かそうと試みるが、多くの場合は失敗してしまい、予言には何か決定的に足りないものがあるという確信を深めていた。
そんなある日、予言を知るきっかけとなった友人のシャーリーンが消息不明になったと知らせが入る。帰国後、自分の中で予言をうまく消化できずに、彼女には一度の連絡しかできずにいた。
彼女が残したメモの地図にインスピレーションを得て、私は再び予言を巡る旅に出る。
「聖なる予言」は冒険小説の形を取っているので、多くの小説と同じように自分にとって必要な部分を特に強く拾ってしまっていた、と、この続編を読んで気がつきました。
このシリーズが本当に伝えたいことは、一人ひとりの日常に生かせる知恵ではなく、(もちろんそれにもかなりの意義はあるけれども)、人類全体の意識に関わる覚悟なのではないかーーー。
最近もう一度この続編を読んで、そんなふうに思いました。
この本は二十年も前に書かれたものですが、今現在の世界や日本の動きに言い知れぬ不安を感じている人、何かがおかしいと思い始めている人には、(そのまま解釈する等ではなく)、非常に響くものがあるのではと思っています。
ただ、「聖なる予言」に比べると一般的ではなくなっていますので、とにかく前作を読んで面白かった方や、フリーエネルギーに興味がある方におすすめ。
「聖なる予言」第二の知恵
「聖なる予言」でも、まず最初に人類の歴史を俯瞰するレッスンがあったと思います。
今現在の人類全体が夢中になっている「物質的な豊かさと安定」は、なぜこんなにも優先されるのか。なぜ、全ての人類が、この四百年余りを「自分の生活をより快適にする」ために過ごしてきたのか。
人々を駆り立てたものはなんだったのか。
「聖なる予言」で第二の知恵を教えてくれた学者が、以下のようなまとめをしていました。
千年前、神が善悪を決めるとかたく信じていた人々は、宗教革命により、その定義を失った。宇宙の成り立ちや人類の目的に関する明確な一致が突然に全て失われ、人々は非常に不安定な立場に置かれてしまう。自由に研究できるようになった天文学者たちは、地球は教会が言うような宇宙の中心ではなく、何十億という星を持つ銀河系の中、太陽という小さな星の周りを回る一つの小さな惑星に過ぎないことも証明してしまった。天気や植物の変化、身近な人の突然の死。今まで神か悪魔の仕業だと教会が言っていたことが起こるたび、人々は戸惑い、不安と困惑に包まれる・・・。
やがて彼らはなんらかの統一的見解を作る必要があると考え、新しい現実世界を系統的に調べる方法として、「科学的手法」を用いるようになる。
しかし、神や地球上の人類の目的など、あらゆるものの本質を発見するには、宇宙は複雑すぎ、答えをすぐに見つけることはできない。
そこで人類は、自らの霊的状況を定義できず迷子になった不安を忘れるために、この世の安心と豊かさを極めることに夢中になっていった。
我々は、自分たちがなんのために生きているのか、まだ知らないということさえ、忘れてしまったのです。
聖なる予言 45ページ
そして新しい千年紀が始まろうという現在(この本の中での)、私たちはこの「思い込み」から目覚めようとしている。少なくともこの知恵に触れたからには、人類の歴史を千年単位で俯瞰し、彼らの思考の流れや、経済発展への強固な思い込みから解放されなければならない。その源を意識しなければならない。
「第十の予言」は、この知恵を学んだ上で深く理解できるもののように感じます。
冒険小説としての楽しみ方
とはいえ、この「第十の予言」もまた、単純に冒険小説(SF?)としても読めるので、そういう楽しみ方をしてもいいと思います。
九つの知恵までを学び、日常生活を送る『私』は、直感に従ってもペルーでのような奇跡的な幸運や他者とのつながりが持てないばかりか、悪感情の噴出にまで発展することがある、という経験をたびたびしています。
これはもしかすると、「聖なる予言」を読んで、日常を送る中でも、実際に直感をたいせつにし始めた人には、わりと経験があることかもしれません。
なぜ、実生活の中では、直観がうまく働いていかないのか。
九つの知恵だけでは足りないとしたら、欠けているものはなんなのか。
ウィルという解脱者的なキャラクターに導かれ、時おり「不思議な次元」へ行き、気づきを得るエピソードはどれも興味深く読みました。超オカルトな出来事ではありますが、ここで語られるものの見方や考え方は、多くの人の現実の生活に役立てられると思います。
同時に「こちらの次元」では、『私』は監視の目をくぐり抜けながら山の中でのシャーリーン探索を続け、個性的な人々に出会い、協力したり敵対したりしながら、彼らの前世や『何をするために生まれてきたのか(バースビジョン)』を知ることになっていきます。その結果、敵を含む全員が今ここにいる理由がだんだんと解き明かされていき、九つの知恵に欠けたものがはっきりと理解できるようになっていくのです。
ある程度精神世界について知識や経験がある人には、「あの考え方のことだな」「あの本にもあった」など、ピンとくる部分も多いでしょう。それらが個別に持っていた意味が、ここでまとめられているという見方もできると思います。
全体的には、場所的な移動もスピード感も「聖なる予言」に比べて少なめで大人しい印象ではありますが、静かな森の中で深く自分の中に潜っていくような『冒険』をじっくりと味わえます。
「第十の予言」自分のための備忘録
ここからは、私がこの物語から感じ取った個人的な気づきになります。
「聖なる予言」の感想に目を通されてから読んでいただけると嬉しいです。
『地獄』とは何か
物語の中で『私』は、たった今生命を終えたばかりのある魂が歩んできた今生の記憶と、彼が死後に陥る『地獄』を目の当たりにします。
他者を客観的に観察することで、人類全体が陥りがちな状況を一度は冷静に受け止める『私』。しかしそれに心を寄せすぎて『地獄』に取り込まれてしまうと、たちまち恐れに取り憑かれ、『私』という概念に戻ることすらできず、苦しみの只中で弄ばれてしまう……。
その様子は、『地獄』といいながらも、実は現実世界にとてもよく似ています。
「自分が変われば世界は変わる」
という言葉がありますが、あれが本当だという体験さえあれば、この意味はすっとわかってもらえると思います。
自分で作り出した地獄
とウィルが言いますが、本当にそうなのです。
私たちはこれまでの人生で演じてきた『コントロールドラマ』を、『恐れ』のせいでなかなかやめることができません。
自分が本当に望むものはなんなのか、自分に向き合うことが苦痛なのは、『コントロールドラマ』でごまかしている「恐れ」に向き合わねばならないからで、ドラマを演じている時には、本心から悩み、死ぬほど苦痛だと感じていても、同時に気楽でさえあるのです。
なぜなら、その苦痛によって、その悩みによって、本質的な苦痛と悩みから目を逸らすことができるから。
目を逸らして『楽な方』へ流れ続ける、絶対的に破綻するが、そうしたらまた同じ苦しみを自分で作り出し、目を逸らす。その様子が『地獄』なのです。
これはちょうど、長い時間と苦痛を必要とする根治を目指さずに、対症治療に明け暮れる病人に似ています。
しかし外から見ていれば『おかしい』ことも、当の本人にとってみれば必死です。『私』が地獄の中に入り、『私』という概念に立ち返ることすらできなかったように。
「第七章 内なる地獄」は常々考えていた『考え方の癖によって自分で作る問題』や『自分の幸福の邪魔をするもの』、『責任』、『それに近づいた状態になると強烈な不安や恐怖を感じて元に戻ってしまう理由』について、様々な気づきをくれるとても濃い内容でした。
人生の中で、懲りずに同じパターンの失敗を繰り返してたきたという方に、強く一読をお勧めします。
『(恐怖の)二極化』とは何か
物語の中に出てくる「二極化」をここ数年よく耳にしていますよね。そしてこの一年、もしかしたら身近にそれを感じたことがあるのでは?
20年以上前のこの本の中に、既にその言葉が出てきています。そして両極にいる人々がお互いをどう思っているか、事実はどうかなどがより高い視座から語られています。
「両方とも相手のことを、もともと悪人でなければ、人間はそのようなことはできないはずだと信じ込んでいる」
(中略)
「どちら側も相手は何か巨大な陰謀に巻き込まれていると考えている。否定的なもの全てを体現しているものの陰謀にね」第十の予言 186ページ
ウィルが触媒のようになって語る思想やその問題点、解決方法も興味深いものがありました。
これについては、個人的には、今の時代は(まだ、か、この先も、か不明だけど)全ての人の共通認識や規範を構築するには程遠く、その兆しすら見えないと思っています。
だから、個々がよく考えて自らいいと決めたことをするしかなく、その自由が自分の生きている間は許されるようにと祈るばかりです。
『エビデンス』がいくらでも作れるものだということは、論文を書いたことがある人になら理解できるはずのことです。そうでなくとも、数字を恣意的に使っているグラフなどが論われているのを一度は見たことがあるでしょう。
だから、できるだけ幅広い数多くの『単純な事実』をできれば『直接』集め、自分で選ぶより他ないのです。全てに自分で『責任』を負い、『自分』を生きるためには。
そして、他者もそれぞれで自由に決めればいいと思っています。
目覚めて愛とつながっている魂と、恐怖に駆られ、何か強迫的なトランス状態にしがみついている魂たちとを区別しなければならない
(中略)
しかし、この二つを区別するにしても、こうした恐怖のドラマにとらわれている魂を、悪魔だとか、悪者だとか見なして、差別したり、無視したりしてはいけない。彼らも成長の過程にある魂なのだ。われわれと同じだ。第十の予言 202ページ
他人の行動がどんなに望ましくないものであっても、彼らもわれわれと同じように、目覚めようと努力している魂なのだ
第十の予言 205ページ
私はもともと他人を説得しようという情熱は持たないのですが、ウィルの言うような思いやりは、胸の奥に持っておこうと思いました。
まとめ:我々は再び迷子になっている…?
宗教的な変革が推進され、西洋の人々は物事を判断する根拠を失い迷子になった、とありました。
日本の場合にも、迷子になる瞬間は今までにもたくさんあったとは思いますが、日本人の精神構造や宗教観を振り返ってみると、西洋のような恐慌状態ではなかったかもしれない、と感じています。
ただ、日本の場合は『突然に』ではなく、『緩やかに』萎れていった何かがある気がしてなりません。(それがいつ始まったかなどを考え続けたここ数年でしたが、今はそのことは展開しません。)
ただ言えるのは、今現在の世界を生きる私たちは、再び暗中模索といった気分で日々を生きているのではないでしょうか。
少なくとも私個人は、目指すべきポーラースターを失い、ボートをどこへ漕げばいいのかわかりません。わからないながらに、『単なる事実』を集めて、自分が信じる方へ漕ぎ、どうなってもその責任は負う、と強く思っているだけです。
ただ、もはやこの心許なさは観念の世界にとどまらず、文字通り命を掛けるような局面にまでなってきて、外の世界には希望の芽を見出すことが難しいとの諦めの気持ちもあるのです。それでいて同時に内の世界には、子供時代の上天気の夏の午後のような安心感もあります。
実のところ、私自身は、もう新しいポーラースターを求めてはいないような気さえします。
でもそれは、今現在の私が、物理的に一人でいられる時間が長いからだとも思っています。人々の思考に挟まれながら、この子供のような無意識的幸福感を保つことは、たぶん、いまだに私には難しいことなのに違いないのです。
でも、だからこそ、今この時に、この本を読み返してよかったと強く思いました。
続編はさらに彼方へ飛んでいく感じ…ですが、個人的には面白くて参考にもなったので、また感想を書きたいと思います。
最後に今回も、「読んでよかった」と思った本を紹介します。
自分一人で心理学的なワークをする場合に、一番優れた本だと思います。感情を手放すことを目的とした実践的なやり方がとてもわかりやすく書かれていて、本全体に優しい雰囲気が漂っています。
「はじめに」を読んでみて、合いそうだと思ったら買って損はないはず。「鵜呑みにしないで」「優しく遊び心のある態度で」という見出しを見るだけで、この本の態度がわかるのではないでしょうか。
何年か前に読んだので、実は(他のこういう本と同じように)細かな内容については現段階では忘れてしまっています。。でも、この本とタッピングで、苦しみを伴う感情(主に怒り)からかなり自由になりました。感想を読みますと、これとタッピングを併用している人が多いようです。
タッピングについて知りたい方は、「TFT EFT」と動画サイトで検索すると、実際にどういうものかを見ることができます。胡散臭さがありますが(すみませ…)、治療法として確立されている科学的な手法です。
=追記=
ところで、やはり気になったので老婆心ながらこれを書いています。
昨今『スピリチュアル』を騙ってあらゆるエネルギー(お金、心など)をかすめとろうとする人々があらゆる場(リアルはもちろん、Twitter、Instagram、YouTubeなども含む)にいるので、この本のようなジャンルに興味のあるあなたは特に、そのようなものには細心の注意を払ってください。
私個人の経験からくる考えになりますが、どのようなものであれエネルギーを搾取するような存在から学ぶことは、あとから考えれば、あるいは冷静になれさえすれば、「こうあってはいけなかった(ない)」「こうするべきではなかった(ない)」などの感想を抱く結果しか、おそらく得られません。
もしそのような経験を敢えてしたいのなら、するといいでしょう。
しかし、『取り返しのつかない物事』もこの世にはあるのです。好奇心によって、今ある素晴らしいものを失くすようなことがないように、と願います。
真贋を見極める目を養い、精神的にはもちろん、物質的にも満たされた状態でいたいものです。
もし何らかの誘いに対して迷ったら、その内容を検索することをオススメします。団体名でもいいし、イベント名でもいい、主催者の名前でもいい。
ひとつ、「決断を急かす」(今すぐ、明日までに、来週の水曜までに、など、誰かに相談したり冷静に考える時間を奪う)場合、そのことや人物には関わらないほうがよいでしょう。
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