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『ルナ・ゲートの彼方』≫大人が子どもにできる最高の提案のひとつ

ときどき記事を書き直したり、書き足したりしていたけれど、2年くらい新規投稿をしていないことに改めて気づき、時間が経つ速さに驚いています。私だけ亜空間にいるかのよう。

いつもいくつかのことについて平行的に考えたり作業したりしているから、大きな時間(月、年)の区切りがあまり意識できていないのかもしれません。

こんなことでは勿体ないと思います。

ですから、以前から「書いたらいいかも」と思っていた日記を今日から書きはじめることにします。気になったことや読んだ本、観た動画などについて、あとから見てわかるように記録していこうと思います。よければ何かの参考にでも、目を通してみてください。

「ルナ・ゲートの彼方」

昨日、数年前に購入して積んだままになっていた本を読み終えました。ロバート・A・ハインラインの「ルナ・ゲートの彼方」、内容としてはSFのジュブナイルです。ジュブナイルというのは児童書ということですが、アメリカの少年少女はこのような難しいSFを子ども時代に読むものなのでしょうか。なんだか信じられない気がしましたが、自分の子ども時代を考えてみると、興味があればきっと、手軽な娯楽が多い現代でも楽しく読み終えられるんだろうと考えなおしました。

恒星間ゲートを利用して未知の惑星に志願者を送りこみ、回収の時まで無事生きのびていられたら合格。これが上級サバイバル・テストだ。よし、やるぞ!ハイスクール生徒のロッドは、両親の猛反対を押しきって、クラスメイトたちとともにゲートをくぐった。事故で回収が不可能になることなど、露ほども知らずに…。ロッドの長い戦いが始まった。(「ルナ・ゲートの彼方」あらすじより)

子どもでも大人でもない年頃の歯がゆさ、思い通りにならなさが現実味を帯びた物語です。結末が気に入らないという感想もあるようですが、私は子ども時代にこのような物語を読むことこそが精神の健やかな成長に繋がると感じて、けっこう好きでした。子どもながらに努力し、手足を存分に動かし、工夫して有機的な文明社会を築くものの、大人(社会)には認められることもなく、身を守るすべもないままに消費されてしまう。冒険のあとに理解者は少なく(両親さえ味方ではない)、耐え難い環境を生きねばならない…、しかし、しかしです! 『助祭』のいうとおり、そんなつらさもやがては乗り越えることができ、夢だった世界に再び出発する逞しさこそが素晴らしいのです。

去年の9月、新聞記事で山下達郎さんの言葉を読みました。曰く―――

教育で重要なのは、かなうことばかり夢想させるんじゃなく、失敗した時にどうするかを教えること。

能力とか才能は、全員が同じじゃない。勝ち負けではなく、その人の身の丈に対する充足を、哲学的、倫理的に教えないと。

失敗ではなく「理想と違う結末」という挫折ですが、まさにこういうことの一例が書かれている本だと思いました。

「いっただろう、つらいだろうと。だが辛抱したまえ。辛抱するんだ」
「こんなの、とても耐えられないよ」
「いや、耐えられる」

ルナ・ゲートの彼方 372頁

助祭の台詞は重々しく非情で、でも確信に満ちていました。おそらく助祭自身も耐えられた・・・・・からそういっているに違いありません。

そしてこれこそが、大人が子どもにできる最適な提案のひとつではないでしょうか。身の丈を知る、こらえるべきところをこらえる、自力で行きたいところへ行く。そういう胆力は、そう決めさえすれば、実は誰でも身につけられるものなのだからと。

また、私はロッド的な人間なので、政治的に動いて全体を煽動し首長になってしまう青年に対して、彼と同じような「言葉にできない・反論できないくやしさ」を感じました。

世の中はこういう風に動くもの、大衆はこのような導きに従ってしまうもの、そしてその中で『公正に』選挙することは、間違いじゃない。だけど。

だけど、と思うのです。選挙の前に全員の前でことさらに(しかも本人以外にはそうと悟らせぬほど自然に)ロッドをあげつらうあの『効果的な』やり方は、理解はできても納得はできません。汚い、と思ってしまう。

しかしそれが政治的ということですから、ごく実際的に感覚や感情を頼りにして、ただ正直に行動するのみのロッドがかなうわけもないんですよね。ただ、そうせざるを得ない環境とはいえ、反感を持ちながらも全体のために飲み込み理性的でいようとするロッドは、私よりもずいぶん大人なのかもしれない、と思いました。

それにしても、時おり解説文が読後感を悪くすることがあるのですが、これがまさにそうで、そこが少し残念でした。基本的に、解説文は「素朴な解説」であってほしいと思います。本はひとつの完成された作品ですので、その中に、あたかもその一部であるかのようにして著者以外の誰かの主張(個人的な考え方の癖)が存在するのは好みません。

長くなってしまったので、今日はここまで。お読みくださり、ありがとうございます。

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